ゆりむくつな

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  貴女(5)  




ツナにしては迅速に行動したけれど、季節は変わる。時は過ぎる。
ようやく乗るところまでたどりついた飛行機の中で、ツナは眼下にひろがるロシアの空港を眺めていた。
深夜だ。明かりばかりが見えて、全貌は見えない。
ここにたどりつくまで色々な段階が必要で、時間は容赦なく過ぎていった。必要なことは山ほどあった。
スパルタだが非常に頭の良い幼馴染に、頼み込んで頼み込んで英語も教えてもらった。
「なんでてめーに惚れてるやつに肩貸すような真似しなきゃいけねーんだ。この借りは高くつくぞ、ダメツナ」
……ついでに、口も悪い。
あのテレビで一度骸を見て以来彼女を目にする事は無く、実を言うと骸が本当に今もロシアに居るのかは不明だった。
だが、それでも、少しでも可能性があるのならば。


「さむ……、」
飛行機から降りて、最初に出た言葉はそれだった。
一気にたった鳥肌をおさめるかのように、ツナは自分の両腕を抱いた。
(ここに、骸さんが…)
いるかもしれない。
ツナは唇を引き結ぶと、意を決したようにスーツケースの取っ手を握った。





朝練習に行く前に、骸は行きつけのカフェに立ち寄った。
時間は早くからやっていて値段もリーズナブル。あまり混んでもいないし、いつも行っている小ホールの近くにあって、寄りやすいカフェだった。
何度か足を運ぶうちにオーナーとも顔なじみになって、今では顔を見ただけでいつもの品を持ってきてくれる。
『おはよう。今日も早いね』
『おはようございます』
このオーナー、いい人なのだが難点は、少し時間があると骸に”恋人はいないのか、いい人を紹介するぞ”と面白半分にせっついてくる。
”日本に片思いだがとても大事な人がいたのだ”と話してからは少しおさまってきたが…いっそのこと、恋人を置いてきたといえばよかったか。
熱いコーヒーを傾けながら骸は小さく笑った。ちょっとその嘘は、心苦しい。
『その日本のムクロの好きな人はどんな人なんだ、何やってる男なんだ』
『さぁ…今頃何やってるんでしょうね。もう長いこと連絡を取ってません』
『なんだ、会ったりしてないのか?相手は冷たいヤツだな』
『いえ、恋人が出来てしまったようなので…辛くて会えないんです』
『そういうことならお前さんもはやく次の男見つけなきゃあ!どうしても日本人がいいのか?』
簡単に話をすすめてくれるオーナーに、笑うのみで骸はこたえた。
いえ、日本人とかではなく。
彼女がいいんですけどねぇ。
『じゃあこないだ丁度日本人のバイトが入ったから、その子にでも聞いてみるといい、おーい!』
その笑いを了と取ったのか、オーナーは店の奥に向かって声をかけた。
これじゃあどこかのオバチャンと変わらないなと思いながらも、骸は首を横に振る。
『いや、いいですから本当に、』
『おいツナー!!ちょっと来てくれー!』

「……えっ?!」
tuna、の単語を聞いた瞬間に、骸は目を見開いた。
日本人と言ったか、今。
『はぁーーい、なんですかー?い、今ちょっとえっと…、いそがしくてー!』
つたないがしっかりと聞こえた英語は、紛れも無くツナの声で。
「…!!」
どくん、と一気に跳ね上がった心拍数をおさえるようにして骸は立ち上がった。
『あれ?ムクロ?』
『すいませんちょっと用事を思い出しまして。また来ますので』
不思議がるオーナーを置き去りにして、財布からコインをつかんで適当に置いて出口へとまっすぐ向かう。
『ぉおーい、なんか多いぞー!』
『とっといて下さい!!』
カランカラン、というドアの音を遠くに聞いて、足早に骸はその場を置き去りにしてチェロを担いで歩いていく。
(…ど、どうして、どうして、どうして!!)
路地裏にまわって背をドンとついて、思わず上がる息をおさえるように骸は口元を押さえた。
(な、なんであの娘がこんなところに居るんだ…!!)
わけがわからなかった。
気が動転している。
(しばらくあのカフェに行くのは控えよう)
まさか居るなんて思わなかった。




『どうしたんだ一体…』
『すいません遅くなって、なんですか店長?』
多めに置かれたコインをチャリチャリさせながら首をひねるオーナーのもとに、ぱたぱたとツナが戻ってきた。
『いやな、さっきここに常連の日本人が来てたから、せっかくだからツナに日本のいい男を紹介してもらおうかと思って』
『え゛…ッ、店長がですか?日本人好きなんですか?店長実はゲ…、』
『俺じゃねーよ!日本人の客にな、紹介してもらおうと思って。でもさっき出ていっちまった』
『日本人の…、それって、どんな人ですか』
ぴくりと顔をあげて真剣な目を向けてきたツナに、ぽやぽやしたこの子にしては珍しい表情をするものだと、きょとんとしてオーナーがこたえる。
『ん?奇麗な黒髪でチェロを弾くなぁ、ムクロっていう…』
がたん!!!

カウンターを飛び出していた。



『お、おぉーい…! 何だ今日は一体…、昼までには戻って来いよー!』






昔からたいしてスキルはないが、体力はそこそこあった。
そう遠くは行ってない筈だとふんで、ツナはとにかく走った。
(骸さん…、……骸さん!!!)
絶対のがしたくない。ずっと追ってきたのだ。
ここで見つけられなかったら、また長いこと会えないような気がして、ツナは必死で走り回った。
もしかしてさっきは、逃げられた?
どうして。連絡も意図的にずっととらずに、こんなに避けられて。
そんなに自分は嫌われている?…そんな筈は、無い!!
(いやだ…、嫌だからね骸さん、やっぱり何にも話さずにそのままずっと離れ離れなんて、おかしい!!)
視界がぼろりと零れそうになった涙でぼやける。
(絶対会ってやるからな!!)
もういちど骸さんに会いたい、今はただそれだけの想いでツナは走った。




入り組んだ路地裏の暗い影で、骸は静かに背を壁に預けて立っていた。
いきなりこの国にいるなんて反則だ。伝わったとしても、彼女にはドイツに行ったことぐらいしか伝わってなかった筈なのに。
どうして何年も経って、目の前に現れるのだ。
骸は両耳をおさえた。
ツナの声が頭から離れない。
あれだけ聞きたかったツナの声。おぼろげになってきた記憶よりも、びっくりするほど鮮やかに響いていた。
(…ツナ君、)
声を思い出せば、途端に触れたくなってきた。
かつて彼女に触れた記憶などたいして無いのだけれど、それでも、恋しかった。
そうだ。自分は焦がれていたのだ。
今更になって渇きを思い出した人間のように、どうしようもない気持ちが湧き上がってきた。
ようやっと。少しは、落ち着いてきたかと思ったのに。
目の前にきたら逆戻りだ。今度こそ我慢できない。
(…触れたい。本当は、触れて抱きしめて)

「…骸さん!!」
ぎゅ、と瞳を閉じたときに、そとから声が飛び込んできた。



暗い路地裏から見た外は、まぶしくてとてもちゃんと目を開けていられなかった。



<続>
つぎ |

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