水面のソォダブルー
「むっくー…、今日も俺、京子ちゃんをお昼ご飯に誘えなかったよ…」
部屋に戻ってくるなりランドセルをコロンと放り投げて、綱吉は水槽の中にいるグッピーに声をかけた。がさごそとえさを手にして、水の中にぱらぱらと落とす。
出窓の手前に置いてある水槽は、外の光を受けてきらきらと輝いている。
その光の中で、目のさめるような青色をしたグッピーことむっくーが、ちらちらと身を翻して泳いでいた。
なんかちょっとむくっとしてて可愛くて、グッピーだから、むっくー。
よく出張で家を空ける父が、おみやげにと買ってきてくれたものだ。はじめて何かを飼うというのが嬉しくて、綱吉はよくわからないながらも育て方を調べ、道具を母にせがんだ。
あんまりきれいなものだから、部屋にやってきて何日間かはずっと、「きれいだなあ」「きれいだなあ」と、飽きもせずグッピーを眺めていた。
そのきれいさは、帰り道に見つけた透き通った青い青いガラスの欠片や、真夏のあついときにビニール袋にいれたたっぷりの水が、太陽の光を反射してきらめくのに似ていた。
本当はいけないのかもしれないけれど、綱吉は水槽にぐうっと顔を近づけて水槽の中に見入るのが、だいすきだった。
そして今日もお話をするのだ。学校にはろくに友達がいないから、本当は友達に話すはずの、悩み事とか相談とか、そんなお話を。
「あとね、京子ちゃんにおはよう、って言われたけど、あんまりちゃんとおはようって言えなかった…」
綱吉の悩み相談はまだ続いている。むっくーは何も喋らないけれど、ちらちらと泳ぐ姿が、まるで答えてくれているようだった。
「俺ってどうしてこう、さぁ、ダメダメなんだろうなぁ…言いたい事もろくにいえないんだ…」
しゅんとしおれた様子でむっくーを見つめる。むっくーになら喋れるのに。このおしゃべりの少しでも、学校ですることができたら。
「お前には色々喋れるのにね…、むっくーが、お友達だったらよかったね…」
もしむっくーがお友達だったら、既に綱吉のいろいろな悩みを知っているわけで、相談もしやすいわけで。
むっくーが人間だったら、何て言ってくれるだろうか。「だいじょうぶだよ」「がんばれ」とか、言ってくれるだろうか。「うん、うん」って、綱吉のお話を聞いてくれるだろうか。聞いてくれる気がする。
「あとね、今日もね、テストね、だめだったんだ…。隣の子に点数見られてさ、『おめ二十点なの?! つか字へたじゃね?』とか言われた…」
語尾が震えて消えそうである。視線は既に水槽にはなく、ぎゅうと握り締められた自分の拳に落ちていた。
「字はへただけどさ…」
もう泣きそうだ。だめだ。今日も泣いてしまうのだ。
「ふ…っ、」
「ちょっと。いい加減そこでうじうじシクシクするの、やめてくれませんか」
ゆらぁ、と綱吉の視界が涙でぼやけて目からこぼれそうになった時、突如頭上から聞いたこともない声が降ってきた。
「ふぁ…っ?!」
思わず見上げて瞬きをする。瞬間、瞬きと共に綱吉の目から涙の粒がちらりと払われた。
まぶしい外の明るさを受けて、それは出窓に腰を下ろしていた。
濃紺の髪、自分と同じぐらいの背格好、ちょっとこわくてきつそうな顔、何より鮮やかな蒼と紅の瞳――
「あんまり苛々するんで人間になってしまいました」
鬱陶しそうに前髪を払うその少年に、ぽかんと口を開けたまま綱吉は呟いた。
「な、なに、…、」
服をいっさいまとっていない少年は、水浸しだった。
そう、まるで、今まで水にでも浸かってたみたいに…、
「え…、」
まさか。
十分な反応が取れないまま、綱吉は水槽に目を落とした。むっくーが、いない。
奇跡を確信して、その目をいっぱいに見開く。
「む…、むっくー!! むっくー?!」
がばっと再度きらきらした顔で見上げると、少年はうろたえたように「うっ」と声を漏らして頬をかああ、と赤く染めた。
「むっくーでしょ、むっくーだよね! うわあ、ほんとに?! 俺会いたかったんだ!!」
うわぁうわぁと全身で跳ねながら綱吉は喜びっ放しだ。
「〜〜〜ッ、のっ、能天気すぎるんじゃないですか?!」
ぷいっと横を向いてしまったむっくーに、「ご、ごめん…、」と綱吉が声の勢いを下げる。
軽く俯く綱吉の前で、そっぽを向いたままむっくーはきゅう、と泣きそうに眉を寄せ、唇を引き結んだ。とても頬が熱くて、心臓がレモンにでもなったみたいに、キュウとする。
「…すごいね、人間になれるんだね、むっくー」
その下で、しかし綱吉は嬉しそうに呟いた。
むっくーは自分の事を六道 骸だと名乗ったが、綱吉は特に気にせずむっくーと呼んでいた。
たびたび人間のかたちをとった骸は、「うん、うん」なんていう優しい聞き方ではなかったけど、確かに綱吉の話を聞いてくれた。
うじうじと悩む綱吉に鮮やかな喝を入れるように、そっとテコ入れするように、色んな助言をくれたのだった。
「とりあえず顔は上げなさい。ずっとうつむいてると、周りも話しかけにくいですよ。君、ガードが固すぎるんです」
教師然としてピッと人差し指たてて説明する骸に、おずおずと綱吉は頭を上げた。
「こ…、こう…?」
まるいくりっとした目をぱちっとさせて、不安げに見つめてくる綱吉に、骸は小さく「うっ」とうめき声を漏らす。
まあ可愛い生き物だとは思っていたが、正直面と向かうと予想以上である。これを無防備に振りまかれては、色々と不安だ。
「あ…、あの…、」
骸先生の評価を待っているのか、自信なさげにかけられる声に、骸はぎぎぎ、と音がしそうなほどぎこちなく横を向いて視線を逸らした。
「い…、いや、まあ、そんなにいきなり無理しなくてもいいんじゃないですかね…」
「ん、ぅん…?」
これでは、アドバイスにならない。
「話を聞くにつけ、その京子という子は君の事を毛嫌いしてるようにはとても聞こえません。おはよう、とちゃんと返せないのであれば、せめて笑顔つくって頷くぐらいしなさい」
「そ、そうかなあ…、でもいきなり、そんな、ちゃんと笑えるかなあ…変に思われないかなあ…、だって俺、笑顔なんてちゃんと作れないし」
ぽそぽそと喋る綱吉に、骸は奇妙に不機嫌そうな顔をした。まるで、相手の言っている事が理解できないとでもいうような顔。
「笑顔をつくれない? 君、けっこうちゃんと笑えてますよ」
「え…、」
ぽかん、と虚をつかれたように綱吉は口をあけたまま止まった。そんなこと、はじめて言われた。
「ほ、ほんとに?」
嬉しさでわずかに紅潮した頬のまま、綱吉は骸に身を乗り出す。「ちょ、」といささかうろたえながら骸も若干頬を紅潮させる。
「ちか、ちかい。綱吉君」
「あっ、ご、ごめん」
「い、いえ…」
いっとき、場がシーンとなる。その静けさの中に、ぽそりと骸の声が落ちた。
「僕は、君の笑顔は、いいと思います」
だから、ほんとは、もっと自分に向かって笑ってほしい。笑ってくれると、嬉しいと思う。
だから、ほんとは、その宝物のような笑顔は、あまり綱吉の大切とする人に向けないでほしい。相手を振り向かせる力がたぶん、あるから。
「…あ、ありがとう」
そういってはにかんだように笑った綱吉の微かな笑顔は、骸の心をきゅうとさせるのに十分なものだった。
「相手の言葉に何かしらちゃんと反応を、わかる形で返しなさい。コミュニケーションを成立させて初めて、対等に立てる可能性があるんです」
「え、えっと」
「それです」
まごつく綱吉に、骸はびしっと指差した。
「わからなかったら、『どういうこと?』って聞けばいいですし、わかったなら『わかった』と言えばいいんです。『えっと』とか、ましてや無言とか、それじゃあ相手に伝わりませんよ」
こんこんと説明する骸に、綱吉はちょっと不機嫌そうな表情を見せた。
「どうしました、言いたい事があるなら言っていいんですよ」
「…だって、むっくーだって色々喋ってるけど俺よくわかんない事いっぱいあるよ、伝わってないよ」
むくれる綱吉に、骸はクス、と笑みを漏らした。
「ああ、それでいいですよ。今度はもっと綱吉君にもわかりやすく説明してあげますからね」
「ひ、ひどい! それ俺のことばかにしてるだろー! 俺知ってるんだぞ、むっくーは時々わざと判りにくい言い方をするんだ」
「それだけ判ってれば上等じゃないですか、ねえ綱吉君? それにちゃんと気持ちも表出できてるし。その五分の一の力でも学校で発揮できたら、もう少しスムーズにクラスメイトと話せるんじゃないですか?」
くすくす笑う骸に、きゅうに綱吉は気弱になったように肩を落とす。
「だ…っ、だって、学校でじゃ無理だよ…むっくーだから俺こうやって色々ありえないこと言い合えるんであって…」
『むっくーだから』
『言い合えるんであって』。
「っ…、」
思わず骸は頬を赤らめて唇を引き結んだ。この生き物は、自覚もなく、どストレートパンチを心臓あたりにかましてくれる。
学校では萎縮して誰ともろくにコミュニケーションがとれないというこの子は、この部屋、骸の前ではたいそう無防備に自分をさらけだす。
学校の皆に、このかわいさを自慢して回ってやりたい。けれど誰にも味わわせたくない。
そんなプチ嵐のような思いを無理やり鎮めて、骸は軽く肩をすくめた。
「ま…、まあ、それも、おいおい僕相手に練習していけばいいですよ…僕は君の、いうなればペットですから、別に何言われても構いませんし」
「ぺ、ペットとか言うなよ…かまうよ…。何か、いやだったら、言ってよねむっくー…」
これで更に唯一の友達までなくなってしまったらと、綱吉は目を伏せる。骸は一瞬口をつぐむと、軽く手をさまよわせてから、そっと綱吉の頭をなでた。
「…いやなこと、あるわけ、ないですよ」
ぎこちない。手も言葉も、ぎこちない。変な言葉になってしまった。ちゃんと相手に伝えられてないのは自分かもと、骸は小さく吐息で笑った。
いやなことが、あるわけがない。本当に何を言われても、自分への言葉ならば、嬉しいのだから。
「世界は君が思うほど悪意には満ちていません。敵を倒すなんて気持ちで向かおうとすると、勇気がいくらあっても倒しに行けませんよ。友達になればいいのです。別に特別なモノじゃありません、こうやってだらだら話していればいいぐらいです」
「だからさあ、それができたら俺今困ってないよぅ〜」
「君、何か頑張って喋ろうとしてませんか? 別に特別な話題を提供しなくても、相手の話をちゃんと聞いてあげればいいんですよ。そういうのは得意だと思いますけど」
しかし綱吉は、多少むくれたようにうつむいている。
「どうしたんですか」
「…でも、だって、そんな感じじゃないんだもん…話きいてるだけとかさぁ…」
確かに、この年齢ではまだ自己主張が正義としてまかりとおる部分が残るか。
まぁまだ子供であるし、仕方のないことだろう。骸は軽く肩をすくめた。
「大丈夫ですよ、近いうちにちゃんとできるようになりますから」
「弱いのではなく、君のはやわらかさであり優しさです。それは財産ですから、恥じるのではなく堂々としていなさい。いつか自分で自分に感謝する日がきます。ひとが君に感謝する日がきます」
「う…、」
頷こうとして、綱吉は首を傾げかけた。ちゃんと頷けなかったのは、よく意味がわからなかったからだ。
ただ、褒められているであろう事はわかったから、小さく綱吉は「うん」と応えた。
「堂々とした人の優しさはとても心地が良いものです。僕は、君がそれを持っているような気がします」
いつになく静かで透明な目で、まっすぐこちらを見て伝えてくれる骸に、「うん」と綱吉は頬をゆるめた。
「でも俺にはねぇ、むっくーがそれを持ってるような気がする」
目を細めてゆるく呟いたその言葉に、意表をつかれたように骸が瞬きする。
「そ、うでしょうか、」
視線を外してぎこちなく答える。綱吉はもう知っていた。骸が視線を外すときは、たいてい照れているのだ。
落ち着いたような、はにかんだような笑みを浮かべる綱吉を前に、骸はやわらかい居心地を感じて胸がきゅうとした。
この居心地を、できれば彼にも共有していてほしい。彼のための時間が、いつから自分のための時間になってしまったのだろう。
「そうだよ。だってむっくー、言葉はたまにキツいけど、堂々と俺の助けになることしてくれてるじゃん。実はどれもこれも、やさしいしさ」
綱吉の言葉はたいがい感性で発せられているので、色々必要な言葉が省略されているし、あまり筋道は立っていないし、正直読解がわかりにくい部類に入る、と骸は思う。
なのに。
どうしてこんなに、すんなり体温と同じ温度で、自分の中に彼の言葉は入ってくるのだろう。
綱吉が発する言葉がどれもくすぐったくて心地よくて、口の端をゆるめたまま骸は軽く目を伏せた。
「…すごいですね、君は…」
伝えたいことを、伝えたいのだとこちらを見つめる綱吉に、あたたかさをこめた視線を向ける。
「…できるじゃないですか、ちゃんと相手に語りかけることが」
「え?」
おしゃべりする自信がないと言いながらも、それでも小さな胸を張って自分の思ったことを相手に伝えられている。
「そう。せめてそのくらいシャンとしていなさい。いいじゃないですか」
骸がくすぐったさが混じった笑みを零すと、きらきらした目を見開いて綱吉はぽか、と小さく口を開けていた。
「あ…、わ…、う…、」
コクンと首を傾ける。
「うん…!」
わからないながらも頷いた綱吉の笑みは、どんな言葉よりもわかりやすく、骸の胸に届いた。
「たいして他人は人の事なんて気にしちゃいません。君だって、人のこと気にしている割に人の顔ちゃんと見たことはあまりないでしょう? 隣の子が着ていた私服とか、君思い出せますか?」
「あっ、あのねっ、京子ちゃん今日はうすいピンクのワンピース着てたんだよ! フードがついててね、半そでだけど下に白の長袖着ててね、くつ下は茶と白の水玉だった! かわいかった!」
「君テスト赤点なのにどうしてそういう事はおそろしいほどちゃんと記憶してるんですか…」
幾分げんなりした様子の骸に、照れたように綱吉はうつむいた。
「だって…、そりゃ、覚えてるよ…」
その様子に、骸はきゅ、と眉を寄せて軽くため息をついた。
「そういえば君、さっき自分の脱いだくつ下探してましたけど、ベッドの布団の中にありますよ」
「へ?」
「つかれたー、とか何とか言って、そのままくつ下も自分も一緒くたに布団かけて寝てたじゃないですか」
「え…? …あ!」
言われたように綱吉が布団をめくってみると、確かにそこには探していたくつ下が。
「よ…、よく気付いてたね…!」
「…そりゃ、気付きますよ」
どこか遠くに投げられるように呟かれたそれに、しかし綱吉は気付くことはなく。
「そりゃそうだよね! おなじ部屋にいるんだもん」
「ええ、まあ、そうですね」
淡く骸は苦笑した。
それを言うなら、「京子ちゃん」以外の隣の席の人間のことを、綱吉はどれだけ覚えているだろうか。
意識と視線が向いていないと、どんなに近くにいても、覚えておくことなどできないというのに。
「そういえばむっくーってさ、他の生き物にもなることができるの?」
いつものように相談事をしていた話の間に、ふと疑問に思ったのか綱吉がそんなことを口にした。
綱吉にもらった菓子を珍しそうに眺めながら、骸は首を横に振る。
「いいえ。本来生まれもった姿か、もうひとつだけの別の種だけです。僕は今回人間のかたちをとりましたが、人間のかたちでなくても、別の種でもなろうと思えばなれました」
ぱく、とお菓子を口にする。しばらく人間に成ってなかったから、このお菓子は初めて食べる。
「へー…。人間の形で居続けるのってさ、なんかエネルギーとか使いそう。疲れない?」
「いえ、どっちかの形をとってる時は別に。けれど、形を変えるときに力を使うので、いずれ成り変わりができなくなります」
まるで何かの電化製品のようである。スイッチを入れるときに、一番電力を消費する。
「え…っ、じゃあ…、そのうちどっちかになれなくなっちゃうってこと?」
「そうですね」
驚きのあまり菓子を取りこぼした綱吉の、下にひろがるお菓子のくずをティッシュで掃除する。まったくもって動作そのものは人間のソレである。
「えっ、じゃあそれって最終的にグッピーになっちゃったら、もう元に戻れないじゃん、終わりじゃん」
「と言っても、僕の種族は生まれ変わりの記憶が残せるので、大きな人生の中で色んな生き物に生まれ変わってる、みたいなものなんですよ」
「でも、じゃあ、ずっと人型でいれば」
「じゃあ君は、人ひとりを養うことができるんですか?」
さらりと何気なく吐かれたそれに、ぐっと綱吉は言葉を詰まらせた。
「クフフ、君、ごはんのときは『さかなに戻ってよ』って言うじゃないですか」
確かに、綱吉には人ひとり養うどころかコッソリ人間のごはんを持ってくるのも難しいらしく、食事のときはグッピーの形を骸にとらせ、えさをやっている。
しかし、形を変えるときに、多大なエネルギーを使うという骸に、じゃあグッピーのままでいたら、と言うことができなかった。
「だって…、」
だって、そうしたら、こうやって友達のように話せなくなってしまう。しゅんと綱吉は肩を落とした。
そんな綱吉の心を察したように、ふ、と淡く骸は笑う。
「いいんですよ、僕は僕の好きなようにしてるだけですから」
「…う、うん…」
別に確かに、骸は人間として生きることができないわけではない。
ただ、この部屋にとどまっていたかっただけだ。綱吉のグッピーとして。そのために、少しほかの仲間よりも多くエネルギーを消費しているだけである。
「ほら、お菓子なくなっちゃいますよ。僕が全部食べていいんですか?」
「や、やだ! まって、食べるよ!」
慌てて菓子に手を伸ばす綱吉に、骸は人知れず微笑った。
こんな何気ないやりとりができるなら、どんな価値を払っても構わなかった。
「むっくーのおかげでね、今日、京子ちゃんとお喋りできたんだよ」
「よかったじゃないですか。僕の助言のたまものですね」
部屋で、グラスに注いだソーダをストローでちぅ、と吸いながら、綱吉はへへ、と照れたように笑った。
「うん、ありがとね」
骸は、しゅわしゅわと水面に立ち上る泡をぼんやり見つめながら、そのまま視線を綱吉へとうつす。
「多分、ダメツナなんて呼ばれなくなる日も近いですよ」
「えぇ〜、そんな日が来るかなぁ」
「君がそんな弱気でどうするんですか。来ますよ」
ソーダの泡は線香花火に似ている。水面ではじけては、そのまま消える。香りだけが余韻のようにかすかに残る。
「でも俺ね、こうやってむっくーと色々喋ってるけど、やっぱりまだ大事なことは言えないよ…俺、京子ちゃんとふつうのお話するのでいっぱいいっぱい」
もう幾度も見慣れた、かるくうつむく綱吉の頭。
撫でようかと軽く上げかけた手を、骸は片手で持つ自分のグラスに添えた。
「普通におしゃべりできる人でも、大事なこととなるとそう簡単には言えないものですよ。…だから、」
その『大事なこと』は、言えなくてもいいんですよ。言わないで。
「…だから、そんなに気に病む事はないんですよ。第一、いきなりそんな積極的になられたらびっくりするでしょう?」
軽く肩をすくめて目を細める骸に、綱吉はほっと肩の力を抜いた。
「そう? そうかなあ、そっか。だよね」
人好きのする笑顔を浮かべて、照れ隠しのようにストローを噛み噛みする。
その笑顔や、照れは、すべてひとりの人を慕うがゆえ。かすかに、骸は眉を寄せた。
すぐそこにあるように見えるのに、眩しくて遠くて手が届かない。
「…ねえ綱吉君。水中から見た水面って、太陽の光を受けてとても神秘的にゆらめいて美しいんです。君も、プールとかで覚えがありますよね」
「? うん」
いきなり何を話すのだろう。真面目な声音に、綱吉が顔をあげる。いつになく浮かない顔で、俯く骸がいた。
「けれどそれに近づこうとしてあがっていくと、いずれは水面の上に出てしまう。ずっと自分が見てた景色は、そこに着いた途端消えてしまいます」
うつむいたまま話す骸に、綱吉が眉尻を下げる。
とても、彼の元気がないように見えた。まるで、とても悲しいことを話しているように聞こえる。
綱吉は、手にしたグラスにギュッと力を入れた。
「…で、でもさ、」
ちら、と力ない視線がよこされる。この元気のなさを、どうにかしてあげたかった。
「じゃあむっくーは知ってる? おひさまの光をすっごいキラキラ反射して、まるでひかりの道みたいになってるきれいな海とか、すごくくっきりした青い青い空とか、海にのみこまれるような大きくて燃えてるみたいな夕陽や、水中から出なきゃ見えないきれいなものがたくさんあるってことも、」
空には鳥が飛んでいるということも、その海はいずれ地上と接しているということも、その先には大地があるということも。
骸は、遠くを見るような目でくるしそうに眉を寄せて、ぽつりと泣きそうに呟いた。
「…知らないです」
知っていたけれど、知らないものだった。
近頃、骸の元気が目に見えてなくなっているように見えた。人のかたちをとる時間も、以前より減ってきているように思える。
綱吉はどうにか元気を出してもらいたくて、骸がくれたアドバイスの成果を健気に報告し続けていた。
骸のおかげなのだから、それに報いるように綱吉は助言のひとつひとつをだいじに心にとめて、日々の生活を送る。
すると、本来柔和でとっつきやすい綱吉は、だんだん人と関わることが上手にできるようになっていた。
「聞いてむっくー! 今日ね、京子ちゃんと一緒に遊びに行ったんだ。京子ちゃんすっごい喜んでね…、」
喜んでもらえるはずの報告は、彼を元気にはしてくれなかったようで。
骸はひそりと座ったまま、小さく呟いた。
「もう…、僕の助言なんていらないですよ綱吉君」
「え…っ、なんで、いるよ…! だってむっくーがいたから…」
「君は本当は、君がしようと思うことをちゃんと実現できる力を持っているんだ。だから本当は、僕の助けなんて最初からいらない」
「な、何言ってるんだよ、あんなにお前偉そうだったじゃん…!」
とさり、と鞄を置く。
既に中学生になっていた綱吉は、変わらず小学生のような容姿の骸に駆け寄る。その綱吉の腕を、やわりと骸はつかむ。
「いいえ、聞いて。君が君であるということは、もっと自信を持っていいことなんですよ、綱吉君。だって僕は、」
『色々喋ってるけど、やっぱりまだ大事なことは言えないよ…』
ふ、と骸は小さく笑みを漏らす。それはね、本当、高度なことなんです。
だって、自分を知り尽くしている自分が限りなくハードルを上げてしまうものだから。
「…僕のことを見た瞬間に、名前を呼んでくれて、嬉しかったです。喜んでくれてありがとう。この形をとってよかった」
一番肝心なこと以外はすらすらと口をついて出てくるものだから、まいった、としか言えない。骸は苦笑した。
こんな時ばかりは、幾万もの饒舌さは寡黙さに負ける。
「な、何言って、どうして、む…っ、」
だって僕は、そんな『君である君』が、ずっと好きだった。
でもそんな君が本当に僕のことを見てくれるときは、たぶん、来なくて。
「ちょっと…っ、まさか戻らないつもりで…!」
心をすり減らしすぎた。
人のかたちでいるのが、とても、つらい。
人のかたちをとりすぎた。もう何回も、形を変えることはできない。
白い手が、すっと綱吉の頬に添えられる。
「っ…!」
顔が重なり、かすかに唇が触れる。それと共に霧のようなものが辺りを包む。
唇の感触が消えてなくなった次の瞬間には、水槽の中に変わらずスイ、と身を翻すグッピーがいた。
「…む、っくー…、」
へたりと綱吉は腰を下ろした。
「むっくー! むっくー!!」
綱吉がいくら呼びかけても、グッピーはグッピーのままだった。
そして何日か経ったのちに。
グッピーはとても軽くなったように、水の中に浮いていた。
********
ただいま、と言おうとして、綱吉は口をつぐんだ。
一人である自分の部屋のドアを背に、ずるずると腰を落とす。どさりと鞄が落ちた音がした。
前と同じだった。前よりひどい。
気持ちがどうしても上がらなくて、とてもだいじなものを失ったようで、気力が出ない。
最近はずっとこんな調子で、ろくに人と話せなかったあの頃に逆戻りだった。今は、心配してくれる友達もいるのにそれにろくに反応も返せない。
何もいないはずの、窓辺のあたりに無意識に視線を向けてしまう。
勝手に伝えるだけ伝えて、勝手にいなくなって、本当に勝手なやつだった。勝手に部屋に現れて、勝手に色々口出しをしてきて、勝手にかなしそうな顔をして、勝手に…。
「…ばかだよ、ほんとに」
乾いた声でぽつりと呟く。
「あいつ、ほんと、俺のこと何だと思ってんだ…、自分のことだって、何だと思ってんだよ…、自分で勝手に色々考えて終わって、ばかじゃないの、ほんと…」
「本人がいないのをいいことに、随分な言い草ですね」
何の前触れもなく背後から聞こえた声音に、弾かれたように綱吉は背後を見た。
「む…っ! くー…?」
大きくなっている気がするけど、この髪型に瞳の色、忘れられるわけがない。
疑問と確信を持って呟かれた綱吉の声に、相手はゆるやかに頷いた。
「ええ。僕です」
何もかもがちょっと、理解できなかった。
「気がついたら僕、今度は虫だったんですよね」
「え…っ、だ…っ、な…っ、」
「で、ですね、さすがに虫ではいまいち力不足だったのか、人間になったあと虫に戻れないんですよね。まあ、戻れなくてもいいんですけど」
困ったように肩をすくめて、ゆっくり綱吉のもとへ近づいてくる。
脚が、なんか長いような気がする。まろみを帯びた頬のラインは、すっとしたものになっている気がする。かわいらしさのあった顔のつくりは、そのまま端正でうつくしいものに変わっていた。
要するに、育っている。この前は少年だったのに、若干青年に近いかんじに育っている。
腰が抜けたように立ち上がれない綱吉は、ただ相手を見上げるばかりだった。
綱吉の近くまで来た骸は、すっとしゃがみこんで綱吉に目線を合わせる。困ったように、すこし笑っていた。
「だめでした。やっぱり君のもとがいい」
その呟くような声を聞いた瞬間、たまらなくなって、綱吉は顔をくしゃ、とゆがめた。
視界が涙でゆら、と揺れる。
だから、誰も消えろなんて言ってなかったっての…!!
「ばか…!!」
「はい」
勝手なのだ。この男はいつも。そのくせ、変な不器用さで、綱吉を振り回して。
「お前こそ、気持ちとか伝えるの、へたなんだよ…!!」
「はい」
ひく、としゃくり上げる綱吉の頭に、骸はそっと腕をまわした。
気持ちをぶつけるみたいに、綱吉は骸の背中のシャツをぎゅうう、と掴んだ。
「もう勝手に居なくなるなよぉ…!!」
「…はい…、」
ぼろぼろ涙をこぼす綱吉の頭を、目を閉じてきゅうと骸は抱きしめた。
ああ、自分が水中の生き物であるから、水面の美しさに届くことができなかった。
でも水中の生き物でなければ、水面の美しさを知ることはできなかった。
きらきらしている、とても。
ただただ眩しかった水面のソォダブルーが、骸のいちばん透明な部分に染み渡った。
その心地よさと感動を、表す言葉を、骸は知らない。
「…ありがとうございます」
奇跡を抱きしめるかのように、骸は腕の中の綱吉を抱きしめた。
背中に回された手に、ぎゅうと力がこもったような気がして、泣きそうに顔がゆるんだ。
ああ、光の粒のような水の泡が。
空を溶かしたような、蒼が。
とても。
<終>